あん(2015)
日曜日, 8月 21st, 2016『あん』
『あん』
『ムード・インディゴ うたかたの日々』(原題: L’Écume des jours)
『地獄の逃避行』(Badlands)テレンス・マリック
『天国の日々』(Days of Heaven)テレンス・マリック
『青春放課後』
『コロンビアーナ』(Colombiana)
『人生の特等席』(Trouble with the Curve)
『ショコラ』(Chocolat)
『トゥ・ザ・ワンダー』(To the Wonder)テレンス・マリック
『クロワッサンで朝食を』(Une Estonienne à Paris)
『アンコール!!』(Song for Marion、米公開時英題:Unfinished Song)
『カリフォルニア・ドールス』(…All the Marbles)
『ルビー・スパークス』(Ruby Sparks)
『アルバート氏の人生』(Albert Nobbs)
『アデュー・フィリピーヌ』(Adieu Philippine)
『冒険者たち』(Les Aventuriers )
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『地球が食べられなくなる日』(Tous cobayes ?)
『サイコ』(Psycho)
『天使の分け前』(The Angels’ Share)
『カルテット! 人生のオペラハウス』(Quartet)
『恐怖と欲望』(Fear and Desire)
『ローマでアモーレ』(To Rome with love)
『アフター・アース』(After Earth)
『華麗なるギャツビー』(The Great Gatsby)
『華麗なるギャツビー』(The Great Gatsby)
『アンナ・カレーニナ』(Anna Karenina)
『君と歩く世界』( De rouille et d’os、英題: Rust and bone)
これは「痛み」の映画というほかはない。身体も心も痛めつけられ、ざらざらと荒れたステファーヌ・フォンテーヌの画面も痛い。
クエンティン・タランティーノの「ジャンゴ 繋がれざる者」が「ジーグフリート」をひな型にした痛快な劇画で死や痛みの「その後」が存在しないのとは対照的にこの映画は痛みの「その後」が描かれたリアリズムのおとぎ話である。
『グランド・マスター』(原題: 一代宗師、英語題: The Grandmaster)
『ヒッチコック』(Hitchcock)
『ファースト・ポジション 夢に向かって踊れ!』(First Position)
『愛、アムール』(Amour)
『ジャンゴ 繋がれざる者』(Django Unchained)
『マリー・アントワネットに別れをつげて』( Les Adieux à la reine)
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(The Curious Case of Benjamin Button)
アナグラムというのはある言葉の文字を入れ替えて別の言葉を作る遊びだが、これが結構面白い。アンドレ・ブルトンがダリの拝金主義を批判し、次のようなアナグラムを作ったことは有名である。
Salvador Dalí(サルバドール・ダリ)
→Avida Dollars(ドルの亡者)
こんな本をある書評で見かけたので早速買ってみた。
タイトルは「驚くべきアナグラム 世界の隠れた意味」
その中から、いくつか抜き出してみる。
Albert Einstein(アルバート・アインシュタイン)
→rien n’est établi.(何も立証されていない)
La vitesse de la lumière(光の速度)
→limite les rêves au-delà.(その先では、夢に限界を定めている)
Le mouvement perpétuel(永久運動)
→temple où rêve un temple.(寺の中でまた寺が夢みている)
Léonard de Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
→Le don divin créa.(神の才能が創造した)
Le sourire de Monna Lisa(モナリザの微笑)
→Le soir donna sa lumière.(夜がその光を与えた)
Léonard Bernstein(レナード・バーンスタイン)
→L’art de bien sonner(よく響く技法(芸術))
L’origine de l’Univers(宇宙の起源)
→un vide noir grésille.(暗黒の空虚がジュウジュウ音を立てている)
L’Origine du monde(世界の起源)
→Religion du Démon(悪魔の宗教)
Le marquis de Sade(サド侯爵)
→disséquer la dame.(婦人を解剖する)
あるいは
→démasqua le désir.(欲望の正体を暴露した)
Aurore Dupin, baronne Dudevant, alias George Sand(オーロール・デュパン、デュドヴァン男爵夫人、別名ジョルジュ・サンド)
→valsera d’abord au son du piano d’un génie étranger.(外国の天才(もちろんショパンのこと)のピアノの音に合わせてまずワルツを踊ることになるだろう)
Robert Schumann(ロベルト・シューマン)
→reconnut Brahms.(ブラームスを認めた)
『天才画家ダリ 愛と激情の青春』(Little Ashes)
してもそうだと思える。
詩人ロルカ、画家ダリそして映画作家ブニュエルという3人の天才の若き日の交流が描かれ、そのなかでロルカの同性愛が強調され、ブニュエルとダリとの共同監督した「アンダルシアの犬」の有名なカミソリのシーンも挿入されている。
様々な現実のエピソードが引用されているが、スペイン内戦下で、反ファシズム活動に関わっていたロルカが故郷のグラナダに帰って自宅で弾く曲が、ショパンの「革命のエチュード」というのは少しできすぎか。
舞台はスペインのはずなのに最後までイギリスの気配がするのは台詞が英語であるせいばかりだろうか?
ミュージシャンにとってラストパフォーマンスは選ぶことができるのか?
たぶんほとんどの場合それはできない。マイルス・デイヴィスの場合もそうだったと思う。
1991年8月25日、ロサンゼルスでのライブの後、倒れその約一ヶ月後に永眠。
「ハンニバル」はそのラストパフォーマンスの一曲で、マイルスの「白鳥の歌」になった。
「マイルス・デイヴィス自叙伝」の中に、「たぶん六歳か七歳だった。田舎の暗い夜道を歩いていると、突然どこからか、音楽が聞こえてきた。みんなが幽霊が住んでいると言っていた気持ちの悪い形の木々の間をぬってだ。(中略)そこにはB.B.キングみたいなギターを弾いている奴がいて、男と女が”失望”について語り、歌っていた。あれは、すごい音楽だった。特に女の歌はすごかった。あの時、オレは何かを身につけたんだ、」という一節がある。
共著者で詩人のクインシー・トループによれば、マイルスは一生、その女の歌に到達したいと考えていたという。しかしそれはついに叶わず、トループはこの「ハンニバル」を聴くと、そのことを思うという。
このエピソードはこの演奏の印象を際立たせる力を持っている。音楽を聴くということは音だけを聴くのではないからだ。
ちなみに「ハンニバル」とはローマ史上ローマの最大の敵として後世まで語り伝えられた紀元前のカルタゴの将軍だが、マイルスとこの名前の出会いは、子供の頃、父方の伯父フェルディナンドがよく「シーザーやハンニバルや黒人史について、よく話してくれた」ことに遡る。
『ピアニストを撃て』(原題: Tirez sur le pianiste, 英題: Shoot the Piano Player)
エルトン・ジョンのアルバム「ピアニストを撃つな」が「ピアニストを撃て」(Tirez sur le pianiste)」意識したものであることは、タイトルをもじっているだけでなく、アルバムジャケットに映画館を使い、そこに張られているポスターに「マルクス兄弟」のものを使っていることからも明らかである。
「ピアニストを撃て」では、マルクス兄弟やチャップリンのフィルムを思わせるドタバタのカットがあり、主人公(シャルル・アズナブール)が名前を新進天才ピアニストÉdouard Saroyanから酒場のピアノ弾きCharlie Kohler(Colère: 怒り)「怒れるチャップリン」に変え、その長兄の名前がChico Saroyan(Chicoはマルクス兄弟のひとりの名前)であることからもそれが分かる。
Charlieは夫の売り込みのために興行師に身を任せ、その自責の念から自殺した妻を思い出させる元の名前で呼ばれることを拒否しているが、その一方でかつての栄光の証である新進天才ピアニスト時代のリサイタルのポスターを密かに自室の壁に貼り続けている。
しかしタイトルについては、かつてアメリカ西部の酒場では貴重なピアニストを保護するために「ピアニストを撃たないでください」と貼り紙がしてあったという逸話があることから、これをもとにトリュフォーがそれをもじって「ピアニストを撃て」としたと考えられる。(映画の原作は、デイビッド・グーディスの”Down There”)
とすれば、エルトン・ジョンはトリュフォーに触発され、アルバムタイトルについては「ピアニストを撃て」をもじったと言うよりは、むしろ「先祖返り」をしたと言うべきである。
「ピアニストを撃つな(Don’t Shoot Me I’m Only The Piano Player)」がピアニスト自身が身を守るために使う言葉であるなら、「ピアニストを撃て(Tirez sur le pianiste)は「(他の人間の代わりに)俺を撃て(Tirez sur moi)」となるだろう。
愛する妻を自殺から救えなかったかつての天才ピアニストが、最後に暗い表情で酒場のピアノを弾きながら反芻する、新たに得た愛する女、彼のために一緒にかつての栄光を取り戻そうとする女をギャングの銃撃から守れなかったことへの深い悔恨の言葉ではないか。
音楽(芸術)における才能の多寡と興行的(世俗的)な成功とは必ずしも一致せず、ましてや幸福とは無関係であること、またそれでもその才能とともにしか生きていくことはできないということを苦く思い起こさせる。
『日曜日が待ち遠しい!』(原題: Vivement dimanche!)
遺作となったこの作品で、トリュフォーが、実生活とは対照的に映画作家になっていく過程で見た数々のフィルムへのオマージュをちりばめているのは象徴的である。
流れ去る「人生」と残る「映画」。
あえてモノクロで撮影したのは、若い日に熱中したハリウッドのフィルム・ノワールを撮りたかったからに違いないし、現にキューブリックの「現金に体を張れ」を思わせるフラッシュバックや「競馬」が使われている。キューブリックへの言及は直接的にも行われていて、重要な舞台の一つである映画館「エデン座(「エデンの東」を連想させる)」で上映されているのは「突撃」だ。
フィルムへのその他の「目くばせ」および詳しい解説はこちら。
『現金に体を張れ』(The Killing)
ジェラルド・フリードの音楽が緊迫感を高める。
大金を狙って周到に計画された完全犯罪が、女がつまずきの石となり、最後に「偶然」によって破綻してしまうのは、4年後に制作された「太陽がいっぱい」の原型となっているかもしれない。
光の「Plein Soleil」と闇の「The Killing」であるがいずれも皮肉なラストシーンが印象的。
『オペラ座の怪人』(原題: The Phantom of the Opera)
『マディソン郡の橋』(The Bridges of Madison County)
『太陽がいっぱい』(Plein soleil )